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2008/07/21 (Mon) 『気流の鳴る音』補
2008/07/21 (Mon) 『気流の鳴る音』
2008/07/21 (Mon) 『東京奇譚集』
2008/06/21 (Sat) 『通訳』
2008/04/09 (Wed) 『石の猿』

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[:quote:] 芭蕉は松島をめざして旅立つ。「奥の細道」の数々の名句をのこした四十日余の旅ののちに松島に着く。しかし松島では一句をも残していない。「窓をひらき二階をつくりて、風雲の中に旅寢する」。一夜を明かすのみで、翌日はもう石巻に発っている。松島はただ場所の旅に方向を与えただけだ。芭蕉の旅の意味は「目的地」に外在するのではなく、奥の細道そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ。[/:quote:]

今年一年あれをしよう、これをしようと考える。そして、一年が終わる頃にこれもできなかった、あれもできなかったと後悔し、反省をする。来年こそはと。時計は人間を商品にした。私の区切られた時間を、雇用する会社が買い取ってくれる。私の「意識」は連続しているのに、「時間」は細切れにされていく。やがて意識も不連続になってくる。商品化された時間とそれ以外の時間において、その時間を生きる外在的な意味が異なっているからだ。不連続な時間を通過する時にこの意味の切り替えスイッチがうまく作動しないと、社会不適合者というレッテルを貼られかねない。そうすると、「うまく切り替えを行なう」という新たなる目標が加えられ、そこに時間が費やされるために、ますます不連続な時間が増えていく。ここに這い出ることが極めて困難な悪循環が生じる。

外在化された目標が何であれ、そこに向かって「歩く」ことが大切なことであり、それが充実したものでなければいけないというドン・ファンは言う。その過程が重要であると。ある時から「老い」と「死」を怖れるようになった。それは、ただ目に見えぬものへの恐怖というのではなく、区切られた時間に対する閉塞感のようなものだ。時間が区切られると何らかの目標に向かって歩まねばならないと感じてしまい、あれこれ考えるうちに時間が足りないと嘆き、なぜもっと早くからやらなかったのだと自責の念にかられてしまう。私の時間はなるほど短いが、人類の時間はまだまだ残っているし、地球の時間も先が長い。ましてや宇宙の時間は想像を絶する程の長さであるに違いない。私の存在はこの宇宙の時間の一瞬よりも短い長さなのだから、これ以上時間を細切れにして利己的な目標のために歩むのではなく、その歩む過程を充実させた方がいい。この悠久の宇宙の時間の中で、刹那であっても輝くものにしたいと思うのである。


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読む度に思う。この本は何だろうと。社会学だよ、と言われてもピンと来ない。それは「社会学」と呼ばれるものに感じる胡散臭さ故ではなく、あらゆる「学」とつくものとは異なる階層に属する、もっと正確には、何にも属さないものであるように思えるからだ。読み方によっては石にもなり、玉にもなる。毒にもなれば、薬にもなる。過去と現在と未来の点を網の目のように繋ぎ合わせ、そして森羅万象を織り上げていく。そこには上もなければ下もない。左も右もない。そしてもちろんそこには「私」もない。光と影のすき間に「私」は消えていく。

かつて私は、差別的な表現を含むある慣用表現を子どもに教えてはならないと主張する人とぶつかった。その表現は確かに存在するにもかかわらず、それを「存在しない」かのように扱うのは正しいのであろうか。そのような「態度」こそが却って「差別」を生み出すのではないだろうか。

[:quote:]
 差別語を問題にすることは、差別語においてたまたま噴出してくる関係の実質に切り込むための糸口としてのみ重要だ。ひとつひとつの差別語が差別語として流通することを支える、この関係の総体性に切りこむことなしに、差別語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語かに言いかえることは矛盾のいんぺいにすぎず、「新平民」とか"handicapped"とか「目の不自由な方」というような、新しい差別語を増殖させるだけだ。[/:quote:]

このような素晴らしい本を書いている真木悠介氏も、そして並べて書くこと自体恥ずかしいのだが、このような記事を書き続けている私も「言葉」を使っている点では同じである。

[:quote:]
「〈トナール〉は話す(speaking)という仕方でだけ、世界をつくるんだ。それは何ひとつ創造しないし、変形さえしない、けれどもそれは世界をつくる。(中略)〈トナール〉は何ものをも創造しない創造者なのだ。いいかえれば、〈トナール〉は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。だから、言い方によってはそれは世界を創造するんだ。」
 現代哲学の用語をつかえば、〈トナール〉は人間における、間主体的(言語的・社会的)な「世界」の存立の機制そのものだ。
 「太初に言葉ありき」とヨハネの福音書はいう。われわれの生きる「世界」は、「言葉」によってはじめて構造化された「世界」として存立する。[/:quote:]

私たちが「私」として、この世界を固定してしまい、多様なものを見えないもの、聞こえないものにしてしまった原因がここにある。だから「気流の鳴る音」が聞こえないのだ。


[:quote:]
 マルクスの物象化の固有の方法論的な翼は、いわば「経済的判断中止」であった。われわれの生きる「世界」(商品ー貨幣世界)の「自明」の諸前提をカッコに入れることと、これらの「モノ」が、じつは人間たち自身の活動とその関係性のたえまない流れによってはじめて存立することをあきらかにすることによって、この「世界」そのものの存立構造を対自化すること、『資本論』の方法論的な根幹はそのことに他ならない。[/:quote:]

作りあげた「世界」を壊すことには恐怖を伴う。だから、私たちは飛ぶことができないのである。風の音も、気流の音も聞くことができるはずもない。しかし、この本は、読む度に、私に飛び立つ機会を与えてくれるのである。


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村上春樹著。新潮文庫。

この本を購入したという記事を年末に書いたところ、多分検索でヒットしたのだと思うが、この本の表紙を描いた方からコメントを頂いた。表紙には、日本画のようにも見える色使い、筆遣いで、猿が一匹描かれている。そして、その方のコメントのタイトルが「品川猿」だった。これはこの短篇集の一番最後にある作品である。私は、この作品を読んでから、コメントの返信をしなければと思い、最初の2編までは読んでいたのだけれど、3編目と4編目を飛ばして、「品川猿」を読んだ。

短編集の作品の並べ方はどうあるべきなのだろうか。この短篇集に関しては、「順番があった」ように感じた。なぜならば、「品川猿」を先に読んでしまったことを後悔したからである。この作品の不思議な世界が私には最も印象が強く、このあとに読んだ作品はさほど面白いとは思わなかったのだ。もったいないことをしてしまった。

例えば『太陽の黄金の林檎』は読む時に気分に合わせて、並べられた順番は全く無視して適当に読み進めている。そしてその読み方には問題がないように思える。かつて宮部みゆきが編んだ松本清張の作品集(全3巻)があった。最初はさすが松本清張は面白いと思って読んでいたが、2巻目に入る頃には、同じテーマの作品を固めて並べていたのこともあって、どの作品も似たり寄ったりのように感じられて、途中で飽きてしまった。各作品の区別がつかなくなってしまったのだ。他には書かれた時間の順番通りに並べられているものもある。短編集の著者や、あるいは編者が意図するところを知らずして短編集を読むのは少々危険なのかもしれない。

さて、肝心の作品はと言うと、相変わらずの村上節である。正直なところ、「鼻についてしまう程の」と付け加えなければいけない。もちろん、それは村上ファンにとってはそれがいいのだろうが、何と言ったらいいだろうか、村上春樹のそっくりさんが村上春樹の仮面をかぶって書いていると言ったらいいだろうか。何か歯切れがよくない。私にとって、村上作品はチーズスフレのようなものなのだ。しっとりとしていながら、軽い舌触りで、口に入れるととろけて、ほんのりとした甘味とチーズの香りが口にひろがる、そういう印象である。ところが、今回はそうではなかった。少々ねっとりして、後味の悪いケーキになっていたのだ。少々強引なストーリとも言える「品川猿」が一番面白く感じられたのだ。なぜかはわからない。ひょっとすると、村上氏が年をとったからかもしれない。あるいは、読み手である私が年をとって、甘ったるいものを好まなくなったのかもしれない。似たような作品としては『回転木馬のデッドヒート』の方が遥かに自分の好みに合っていたように思う。

いずれにせよ、少しだけ悲しい思いをして本を閉じた。


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ディエゴ・マラーニ著。東京創元社。

これはこの著者の言語をモチーフにした作品の三部作の最後だったらしい。書評にも載っていたということで、勧められて読んだ本であったけれど、格別に興味をそそられることは、残念ながらなかった。むしろ、訳者による解説を読んで、この著者ディエゴ・マラーニの経歴や、またEUに関して漠然と考えていたことなどが、ごくわずかではあるけれど有機的につながって、形をなしていったことを考えると、本書を読んだことには(意図せぬところではあったものの)大いに意義があったと言うべきだろう。

本書の内容はamazonなどで読んでいただくとして、今回本書を読んで言語について思ったことなどを少しだけここに書いておきたいと思う。ただ、思いつくままに書いていくつもりであるし、また言語については門外漢であるので、多々おかしなことを言ってしまうだろうが、笑ってお許しいただければ幸いである。

この本の宣伝文句に「普遍言語の謎に迫る」というようなことが書かれていた。生成文法であるとか、発声器官ということを考えてみると、人間が「言語」を持つことは必然だったのであろう。そしてその目的はおそらく「集団」で生きるためだったのではないかと思うのだ。集団で生活を営むための最低限の情報(危険を警告するとか、食物のありかを知らせる等)を知らせるために、できれば伝達したい者同士の脳が接続できれば、最も精度の高い情報伝達ができるであろうが、集団の大きさによっては一度に多くのものに伝達する必要があり、その要求を満たす最もよい手段が発声器官だったのだろう。では、蜂のダンスはどういうことになるかと言われると、彼らの身体の大きさでは発声器官は有効ではないか、さもなくば集団の中に「絶対に守るべきもの」と「その保護のために犠牲になってもよいもの」という区分があって、後者が前者の保護(つまりは種の保存)のために、多少の危険を伴っても身体全体を使った情報伝達を行なうようになったのではないかと思うのである。発声器官を使った情報伝達は、一度に多くのものに伝達できる(そして、ここに人間の異なる言語が生まれる理由もあるのではないか。社会の進歩に伴う語彙の変化は別として、全く文法的にも異なる言語が発生する理由は、伝達可能な多くのものの中に、敵が存在する可能性があり、敵に情報を伝達しないようにするには異なる言語を持つしかない)ことと、身体を他の活動に使えることである。このような、まさに生存のための言語、およびその発声から、人間の作り出したきた社会の複雑な組織化に伴い、言語に付加的な価値や役割が加わっていった。まるで携帯電話の進化のように。本書は、言語というものが私たちのアイデンティティであることを確認しているような部分が随所に見られるが、マラーニの言うこのアイデンティティはある民族/国民としてのアイデンティティであり、言語が生まれてきた時の人間が人間であるという意味でのアイデンティティではない。もしも、いつか「人間語」として、強制などなしに世界の言語を統一できるとしたら、それは人類にとって、互い以外の強大な敵を持った時ということになるだろう。しかし、その敵の脅威がなくなれば、また、言語はバラバラに分化していくことだろう。人間は、敵を作らなければ自らの共同体を守れない未熟な動物だからである。

などと、冗長な文章を書いてしまったが、まだまだ書きたいことはたくさんある。が、しかし、書けば書く程収拾がつかず、頭は混乱するばかりなので、ここで一旦止めておこう。伝達手段としての私が用いた言語は、皆さんにどれくらい正確に伝わっただろうか。いつか、「文字」となった言語についても書いてみたい。



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いしいひさいち。双葉文庫。

そろそろ相撲のすったもんだに世間が飽きてきたころに、この本が出て来ました。そう、本書は朝青龍の親方である朝潮(現高砂親方)が主人公のマンガなのです。全部で150余りの作品が収録されているのですが、ほとんどがアサシオをネタにしています。途中で関係ない忍者とか、B型平次が出て来ると思っていたのですが、さにあらず。見事、相撲に始まり、相撲に終わっているのです。言ってみれば、相撲版「タブチくん」です。

朝潮の活躍は随分昔のことだったんだなあと本書を読んで驚きました。まだ千代の富士は初々しく、また先代の若乃花が出て来たり、今理事長を務める北の湖もこの当時、まだ現役力士なのです。そんな中、やはり朝潮は異色の、というかマンガにしやすいキャラクターのお相撲さんだったんですね。先代の高砂親方(つまり朝潮の親方)と絶妙な組み合わせ(=ボケとツッコミ)なのです。ちなみに、本書の帯に「この親方にしてあの弟子あり」とあるのですが、これは「この(先代の)高砂親方にしてあの朝潮あり」という意味と「この(今の)高砂親方にしてあの朝青龍あり」と2通りに解釈できるわけです。なるほど、この親方にしてあの弟子かとどちらも納得できる、うまい文句だと思いますが、この2つの関係のうち後者は親方と弟子の力関係がやや逆転しているのではないかと思われる節があります。いろいろ問題を起こしたとはいえ、朝青龍の方がよほど堂々としているように見えるのです。実際、目を吊り上げてキーキー騒ぐ某横審の女性から、現高砂親方は逃げ出していますし…。このようにイヤなことからは尻尾をまいたコソコソ逃げ出すというキャラクターだからこそ、このマンガが面白いのでしょう。面白いどころか、今の高砂親方と重ね合わせると納得してしまうことが多くて、笑いが止まらなくなるのです。

最後に、今相撲界は非常に大人しくしています。朝青龍も年末、モンゴルに帰国したいと希望したけれども、ダメ!と言われて素直に従った、といった記事がありました。確かに、朝青龍は歴代の横綱と比較すれば、自分勝手で、横綱としての「品格」とやらに欠ける(何をもって横綱の品格と言っているのか、私にはわかりませんし、そもそも横審のお歴々が「品格」を持っているのか、甚だ疑問です)かもしれませんが、やはり彼がスケープゴートになっているような気がしてなりません。朝青龍を利用して、相撲協会の根源的な問題が表面化するのを無理矢理押さえ込もうとしているように感じられるのです。例の時津風部屋の暴力事件は一体どうなっているのでしょう。これが「学校」という場で起こったら、親方にあたる教師は即逮捕だろうと思うのです。それなのに、どうして時津風親方は相撲協会からの処罰だけで済むのでしょうか。もし、いつか逮捕されることがあるとして、なぜここまで時間がかかるのでしょうか。角界は疑問だらけです。

こんな限りなく黒に近い灰色の相撲の世界に対して、この時期に(やくみつるだの内館牧子がなぜか相撲に関するニュースの前面に出て来てしまって、肝心の暴力事件そのものが人の頭から消えつつある時に)笑いという形に昇華しつつも、この世界の理不尽さを描いた作品集が出版されるのは、実に有意義だと感じます。ヘンな肩書きに大喜びして、抜き打ちの見回りをしているなどとアピールをする人とは比較にならないほど、いしいひさいち氏の方が「漫画家としての品格」を備えているだろうと思うのです。いえ、本当は較べること自体、間違っているのでしょうね。


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今年も全国憲法研究会主催の憲法記念講演に行ってきました。今年の講演者は、ゲストスピーカーが姜尚中教授、そして研究員報告が辻村みよ子教授で、講演タイトルは、姜尚中先生が「東北アジア・コモンハウスについて」、そして辻村先生が「ふたつの憲法観 21世紀の人権・家族・ジェンダー」でした。尚、この講演会は一橋大学で行なわれました。

さて、講演内容を簡単に書いておくと、まず姜尚中先生の方は世界的に見ても稀な軍事力が集中している東北アジア(北東ではなく、「東北」アジアダという呼称にも先生はこだわっていました)における六カ国協議の重要性と、北朝鮮と日本の関係についてどうあるべきか、でした。最終的に憲法とどのようにこの話がつながってくるのかについては実はよくわかりませんでしたが、いくつかの点で非常に示唆的で、勉強になるお話でした。まず第一に、北朝鮮と日本の関係について、拉致問題を解決することが現在日本国政府や政治家と、そして日本国民にとって最も関心が高く、そしてその対応策として、強硬策をとっているのが現状であるけれど、果たしてそこに実効性があるのか、と疑問を投げかけていました。北朝鮮と国交を開いていないのは世界でも少数ですから、例えば経済制裁といった手段はその効果が十分に発揮出来るわけではないのです。また、北朝鮮との関係においては、国家として「拉致問題」を最優先課題にすること自体どうなのでしょうか。つまり、今後北朝鮮が核を作って、中距離ミサイルで核弾頭を日本に(おそらく東京に)打ち込まないと誰が保証できるのか、つまり六カ国協議がとても重要であり、日本は強硬な制裁手段をとるよりも、もっと対話の席につくことが大事なのではないかという主旨でした。この話は、おそらくいわゆる「心優しき」人々からは猛反撃を受ける可能性があるでしょうし、また某都知事であれば北朝鮮なんかと対話なんてできるものかと一蹴することでしょう(彼は極めて愚かなショービニズムの持ち主ですから)。しかし、私はここ数年気になっていたことを姜先生が答えてくれたような気がして、かなりスッキリした気持ちになりました。なるほど、拉致問題の当事者の方たちは本当に辛い思いをなさった、あるいは今もなさっているのだろうと思います。しかも、この問題は個人の力ではどうにもならず、国家に頼るしかないのも事実です。しかし、その拉致問題の解決のためになぜ「国家的制裁」というものが出て来るのでしょうか。この私の問いには2つの問題点があります。1つは「個人と国家」の関係であり、もう1つは悪いものには「罰」を与えればいいという発想です。

さて、話を少し戻して、姜先生の話の中でなるほどと思った2点目はもし朝鮮半島が統一されるとしたら、それは段階的であり、数十年後のことである、ということです。分断された国家が統一されるというのは、仲違いをした人が和解するのとは訳が違うのです。傍から見れば、仲良くなってよかったねと思えるのですが、当事者たちは、経済格差をはじめ、制度の統一など、解決すべき諸問題が山積することになるのです。東西ドイツよりもいろいろな面で格差の大きい南北朝鮮は、当然そう簡単に統一できないわけです。姜先生のそのような話を聞きながら、すぐ目の前の利害で動くのではなく、何世代も先の人々に少しでもいい国を、いい世界を手渡していくことができるよう、先を見た行動ができるようにしなければならないとつくづく感じました。そして、「先」を残していくためには先述のような「罰」を与えることではなく、「対話」をしていくことの方が有効であるように、私にも思えたのです。対話ができない相手なのだと頭ごなしに決めつけるようなことはせず、お互いに敬意を持って対話をしていくことができるかどうか、それが北朝鮮との様々な問題を解決する第一歩なのかもしれません。そして、歴史というのは繰り返すのではなく、そこから学ぶものなのだということも姜尚中先生のお話から強く感じたことでした。

次の辻村先生の講演については、こちらが長くなりましたので、また後で書こうと思います。


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