読む度に思う。この本は何だろうと。社会学だよ、と言われてもピンと来ない。それは「社会学」と呼ばれるものに感じる胡散臭さ故ではなく、あらゆる「学」とつくものとは異なる階層に属する、もっと正確には、何にも属さないものであるように思えるからだ。読み方によっては石にもなり、玉にもなる。毒にもなれば、薬にもなる。過去と現在と未来の点を網の目のように繋ぎ合わせ、そして森羅万象を織り上げていく。そこには上もなければ下もない。左も右もない。そしてもちろんそこには「私」もない。光と影のすき間に「私」は消えていく。
かつて私は、差別的な表現を含むある慣用表現を子どもに教えてはならないと主張する人とぶつかった。その表現は確かに存在するにもかかわらず、それを「存在しない」かのように扱うのは正しいのであろうか。そのような「態度」こそが却って「差別」を生み出すのではないだろうか。
[:quote:]
差別語を問題にすることは、差別語においてたまたま噴出してくる関係の実質に切り込むための糸口としてのみ重要だ。ひとつひとつの差別語が差別語として流通することを支える、この関係の総体性に切りこむことなしに、差別語それ自体のレベルですくい取ってリストを作り、他の無差別語か区別語かに言いかえることは矛盾のいんぺいにすぎず、「新平民」とか"handicapped"とか「目の不自由な方」というような、新しい差別語を増殖させるだけだ。[/:quote:]
このような素晴らしい本を書いている真木悠介氏も、そして並べて書くこと自体恥ずかしいのだが、このような記事を書き続けている私も「言葉」を使っている点では同じである。
[:quote:]
「〈トナール〉は話す(speaking)という仕方でだけ、世界をつくるんだ。それは何ひとつ創造しないし、変形さえしない、けれどもそれは世界をつくる。(中略)〈トナール〉は何ものをも創造しない創造者なのだ。いいかえれば、〈トナール〉は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。だから、言い方によってはそれは世界を創造するんだ。」
現代哲学の用語をつかえば、〈トナール〉は人間における、間主体的(言語的・社会的)な「世界」の存立の機制そのものだ。
「太初に言葉ありき」とヨハネの福音書はいう。われわれの生きる「世界」は、「言葉」によってはじめて構造化された「世界」として存立する。[/:quote:]
私たちが「私」として、この世界を固定してしまい、多様なものを見えないもの、聞こえないものにしてしまった原因がここにある。だから「気流の鳴る音」が聞こえないのだ。
[:quote:]
マルクスの物象化の固有の方法論的な翼は、いわば「経済的判断中止」であった。われわれの生きる「世界」(商品ー貨幣世界)の「自明」の諸前提をカッコに入れることと、これらの「モノ」が、じつは人間たち自身の活動とその関係性のたえまない流れによってはじめて存立することをあきらかにすることによって、この「世界」そのものの存立構造を対自化すること、『資本論』の方法論的な根幹はそのことに他ならない。[/:quote:]
作りあげた「世界」を壊すことには恐怖を伴う。だから、私たちは飛ぶことができないのである。風の音も、気流の音も聞くことができるはずもない。しかし、この本は、読む度に、私に飛び立つ機会を与えてくれるのである。
テーマ:最近読んだ本 - ジャンル:本・雑誌